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「坪中川」は、東京の赤坂にございました料亭「中川」を昭和58年に解体、移築したものです。初代「中川」は、昭和2年に建てられましたが、戦時中の強制疎開で取り壊され、今の「中川」は、昭和26年8月に再建されたもので、昭和57年まで、戦前戦後、軍部・財閥・政界の要人に使われていた建物です。 時代の流れで廃業することになったのを惜しまれた坪内翁は、女将・中川潮子様の相談にのり、歴史を温存しております。中川の名前は、初代女将「中川とり」様の中川をとって付けられたと聞いております。そこに坪内翁の坪をつけ、坪中川として、今日にいたっております。 前庭は足立美術館創設者の足立全康氏の手による純日本庭園で、この庭園を望んで数名以下、10名、20名前後と人数に合わせて三室で大切なお客様の接待にご利用いただいています。 |
「竹寿庵」は、昭和54年、作家・柴田錬三郎先生と親交のあった坪内翁が、先生の書斎にと造られたものです。しかし、柴田先生は昭和53年に亡くなられ、一度も書斎として使われませんでした。 竹寿庵の風情を惜しまれた坪内翁は、食事処として以後使われました。
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四季折々、美しい自然に恵まれた 奥道後の小高い岡の中腹に 竹林の香しき瓦葺きの茶室「吟松亭」が時を越えて息づいている。 和敬静寂。 一服の茶で心を洗う詫びの世界。気宇壮大な禅の境地が開かれます。 露地に一歩足を踏み入れれば、俗世を離れた別世界がそこに展開します。山からの水が筧を通り軽快な音とともに奥道後の山肌にこだまして・・・・。質素ななかにも無駄のない美しさを秘めた「吟松亭」。 吟松亭は、地元祝谷の茶室「拾翠庵」を奥道後に移したもので、慶安の頃、久松定行侯によって造られたつつじの床柱、天井の松の生節など、贅をつくしたもので、躙は貴人口になっています。 |
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お食事処として最初に造られたのはいろりの間で、昭和39年、ホテルの開業時に、八幡浜の旧家兵頭家の民家を移築した物で、壺や骨董も一緒に譲り受け、今も飾られております。 昭和57年5月に、裏千家の家元、千宗室様を中心にした、著名な政財界人、文化人のメンバー30数名がお見えになったときも、いろりの間で接待されましたし、昭和54年に、竹寿庵が出来るまでは、頻繁に食事処として使われておりました。 |